ヤマトタケルもお湯に浸かった?飯坂の歴史
飯坂温泉の歴史
紀元前3000年頃……摺上川(すりかみがわ)の支流の小川(おがわ)が、飯坂温泉の南を流れており、小川と飯坂街道が交差する月崎(つきざき)そこに縄文人が住んでいました。
2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。
また、拾遺和歌集で「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠まれている(詠み人知れず)ことから、「さばこ」という名前も定着したようです。
源泉は至る所に点在し、農民、庶民などにも重宝されていました。世に知れ渡るようになったのは江戸時代中期の享保年間の頃からで、各街道が整備されたことにより、周辺の庶民に加え、多くの旅人も訪れるようになりました。
中でも、松尾芭蕉の奥の細道の中で、「飯塚(芭蕉は奥の細道において飯坂のことを飯塚と記しています)」として記され、知名度を浸透させたようです。
ただし、芭蕉はこの「飯塚」において、苫屋のような宿に泊まったため、好意的な感想を記しておりませんが、、
この頃の飯坂は鯖湖湯など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と小さな温泉街だったそうで、温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する外湯で湯治を施すようなスタイルであったといわれています。
飯坂という地名はこの辺りが飯坂村と呼ばれたことに因み、伊達家の分家が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに因んでいます。
これがいつしか飯坂村の温泉、すなわち飯坂温泉と呼ばれるようになりました。
飯坂温泉を訪れた、俳人・歌人としては芭蕉の他、正岡子規、与謝野晶子も訪れており、飯坂を詠んだ句碑等が建てられていいます。
ヘレン・ケラーは1937年飯坂温泉に宿泊をしたのをはじめ、2度訪れています。
また、昭和天皇をはじめ、皇族の皆様も訪れています。
ヤマトタケルや松尾芭蕉、正岡子規、与謝野晶子、ヘレンケラー、みんな飯坂温泉のお湯ですべすべ肌を体験したのでしょうか!?
おらが湯 藤太湯伝説(とうたゆでんせつ)
解説 その1
佐藤家伝承「天王寺、藤太湯物語」
語り手・佐藤権(さとうけん)71歳 絵と文・椎野健二郎
平成3年12月24日
昔、昔な。信達平野(しんたちへいや)の湖がな、干上がって、そこんとこが湿地帯になってな……、大作山(だいさくやま)の麓を奥州街道(おうしゅうかいどう)が通っていたころの話しをおせっぺな。
今でいうとな飯坂小学校のあたりからな、二丁(200m)くらい赤川(あかがわ)を上って行くとな!
どんどん川幅が狭くなって、一番せまくなった所が「川崎」と言うんだ。そこん所になんとづない大蛇が川に横たってなア……橋のかわりになっていたんと!
そこを通る村の人も旅の人もな、づない大蛇の姿を見るとまんず、ぶったまげちまって。しまいには、おっかなくなって誰も近よる人がいなくなっちまんだと。
ところがある日。弓をもった立派な若者が通りかかり平気で大蛇の背中をふんでな! 川の向かい側に渡ってしまったんだと。ほうしたら……なんとパァーと大蛇が美しいお姫様に姿を変えたんだと!
女、「お侍さん」藤太、「ハイ!俵藤太と申します」と言いながら、ふりかって見ると年は二十あまりか? この世の人とは思えぬほどに妖しく耀くように美しい女が立っていた。
藤太、「お目にかかった覚えはないが、貴女は誰ですか」と尋ねると、…………女はそばに歩みより……小声で「私をご存じないのはご尤っともです」……「赤川、川崎でお目にかかった大蛇なのです」
藤太、「それではどうして姿を変えて訪ねてきたのか!」と聞いたんだと。
女、「私は日本の国がひらけはじめた、はるか昔から信達の湖に住んでいたのです。湖は七度も干上がっては、田や畑に変わりましたが、そのたびごとにうまく逃れて大作山の麓の『子守沢』に沢山の子供達と幸せにすごして来ました。ところが聖武天皇(756年)の御代から摺上川(すりかみがわ)のほとりに大百足(おおむかで)が現れ、『吉川』ぞいに『片倉山』を越えて、私の子供を食い荒らしに来るようになったのです。そのため、川は、私の子供の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれております。それで、どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私達では力が及びません。これは、やはり器量のすぐれた方の力にすがる他ないと思いあのように大蛇の姿になってお待ちしていたわけです。」と涙を流して頼みました。
藤太は、一部始終を黙って聞いていた。……もし事をし損じたなら、先祖の名折れ末代までの恥辱である、しかし神々の加護の下、日頃きたえた武術をもってのぞめば、かならずや道がひらかれる。と、覚悟をきめ「分かりました。今夜のうちにも百足を退治してみせましょう」と答えた。
女は大層喜んで「三本の矢」をさしだしたんだと……「これは、私たちの血と涙が流れて沢となった『毒沢』で作った矢です、どうかこの矢で、あのにくい百足を仕止めて下さい。」と女はそう言うと、かき消すように消え去った。
藤太はすぐさま身支度を整えました。
先祖伝来の太刀をはき、五人張りの重藤の大弓を小脇に抱え十五束三伏もある大きな矢を三筋手にして「天王寺沼」の右手、寺山に向かった。
夜になり「矢場」に立って「片倉山」を眺めると稲妻がひらめき生(なま)ぐさい風が大作山を吹きわたり、にわかに激しい雨がふりだした。
片倉山の頂だちが、みるみるうちに千本の松明をともしたように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷をゆさぶった。天王寺雷様の襲来である。
それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ百足の近づくのをまった。百足は「穴原・吉川」の断崖をよじ登り大地をゆるがして迫ってくる。
藤太は矢が丁度とどくころとみて、弓を力一パイ引きしぼり百足の眉間めがけて射た、しかし矢は難なくはじき返されてしまった。
藤太は、第二の矢をつがい一心不乱に引きしぼって、ひょうと射放った。だがこの矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。
藤太は進退きわまって最後の一本の矢を……”南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)”……と祈ったら……アラ不思議、貝がら山の岩場から天狗様が舞おりて……
”コレ、藤太、百足の目を狙え”
藤太は神の加護、われにありと、弓を引きしぼりひょうと射た。矢はねらいたがわず百足の目に突きささった。
その瞬間、天王寺雷さまのものすごい音も、ぴたりと鳴りやんでしまった。
さては百足め息が絶えたか? と、その辺りを調べると百足は片倉山から「ムジナ山」にかけて長々と横たわっていた。
次の日の朝、嵐がすぎ去った大作山の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。色鮮やかな若草、季節の花、きのこ、蝶など生きとして生けるすべてのものに光の訪れをそそぎ岩から流れ落ちる滝はうれしげに踊るように流れている。
女、「あなた様のおかげで、日頃の仇きを退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と心から礼をのべ感謝のしるしにと、黄金千枚、うるし千杯、朱千杯をさしだしました。
藤太、「この度のことは、武門の譽れ、我が身の面目、これ以上望むものはない」と、「贈り物は辞退したい」と言いました。
女、「このご恩はどうのようにて、お報いすればよいでしょう。大変勝手なことですが、麓の佐波来(さばこ)の里に、第12代景行(けいこう)天皇の御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)様が東征の折、病に伏し佐波来湯(さばこゆ=現在の鯖湖湯)に入浴したところ、たちまち平癒したといわれる霊泉があります。私が案内しますので、どうぞ……おいで下さいますように」と誘うのである。
藤太、「日本武尊がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血でけがれた身体を洗うのは、あまりに恐れ多いことです」と断った。
女は、ほとほとこまって故郷である龍宮城の乙姫様に相談した。
ほうしたら乙姫様は、大作山の難儀を取りのぞいてくれたことを大そう喜んでナー、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血でよごれた衣類を洗い流しなさい」と啓示したんだと。
藤太は再三再四の親切をことわるのも心ないことと思い快く承知して、言われた通り、泉でよごれた衣類を”そそいだところ”冷たい清水が、だんだんあたたかくなり、……、あつい温泉が湧いてきたんだと。
藤太「いやー、不思議なことがあればあるもの」と。つぶやきながら、ゆったりと温泉につかり、昨夜来の激斗(げきとう)のつかれをいやしたんだって言うんだ。
うんじゃな、おわり。